自己紹介

  • ■氏名
  • 中川 健一(ナカガワケンイチ)
  • ■生年月日
  • 1969年(昭和44年)4月24日 53歳
  • ■略歴
  • ○愛知県知多市立南粕谷小学校
    1982年3月卒業
    ○愛知県知多市立旭南中学校
    1985年3月卒業
    ○愛知県立半田高等学校
    1988年3月卒業
    ○早稲田大学社会科学部
    1995年3月卒業
    ○衆議院議員河村たかし公設第2秘書
    1994年3月より約3年間
    ○株式会社東洋発酵
    1999年8月より約7年間
    ○半田市議会議員、4期目(連続当選)
    2007年5月より約15年間
    ⇒2022年5月18日辞職
  • ■資格
  • ○宅地建物取引主任者試験合格
    ○産業カウンセラー
    ○キャリアコンサルタント
    ○ホームヘルパー(訪問介護員) 2級
    ○福祉用具専門相談員
    ○剣道 二段
    ○少林寺拳法 初段
  • ■趣味
  • 旅と映画とお茶そして読書
    ○これまでにインド・エジプト・イスラエル・中国・パキスタン・ラオス・インドネシア・ドイツ・アメリカ・フランス・イタリアなど18カ国を旅しました。
    ○好きな映画は「男はつらいよ」シリーズと「天空の城ラピュタ」、「カサブランカ」、「死ぬまでにしたい10のこと」など。
    ○お茶は裏千家で学びました。
    ○読書は大学生の時に日本の安全保障政策を研究した関係で、今でもその類の本を読むことが多いです。面白い、という観点で私のお勧めは、次の通りです。

    『世界地図の中で考える』(高坂正尭著)
    『ローマ人の物語』(塩野七生著)
    『大国の興亡』(ポール・ケネディ著)
    『マッキンダーの地政学』(H・Jマッキンダー著)
  • ■座右の銘
  • 「面白きこともなき世に面白く、すみなすものは心なりけり」-高杉晋作-

    「あー生まれてきて良かった、そう思うことが何べんかあるだろう。そのために生きてんじゃねぇか。」-車寅次郎-
  • ■座右の書
  • 『朝の論語』安岡正篤 著
    『寅さんの人生語録』山田洋次 作
  • 写真で辿るこれまでの私の人生

    1969

    新日本製鉄に勤める父と看護婦であった母の間に生まれました。三つ下の妹が一人います。
    生まれた当初は太田川駅前、そして阿久比町の新日鉄の社宅へ、それから知多市南粕谷へ引っ越しました。何もないところで、ペロ(雑種犬)と野山を駆け巡って幼少期を過ごしました。小学校から新日鉄剣道教室に通いました。

    1985

    人はどう生きるべきか、好きな女の子とどう付き合えば良いのか悩んでいた青春時代でした。
    まだ社会を考える余裕がありません。人生の手掛かりを探して小説を読み漁りました。藤原正彦著『若き数学者のアメリカ』、三浦綾子著『氷点』、山口洋子著『夜の底に生きる』など。 勉強よりも部活動、剣道に熱中していました。ある時は思い立って、名古屋駅から夜行列車に飛び乗り、北へ向かって、上野からは常磐線、青森からは青函連絡船に乗って函館まで旅をしたこともありました。このような次第で、学校の成績は落ちる一方でした。結局、志望大学には受からず、宙ぶらりんの浪人生活へ。代々木ゼミナールと河合塾に2年間も通いました。

    1990

    浪人時代に読んだ『小説早稲田大学 永田町の都の西北』に触発され、門を叩いた雄弁会でした。
    写真は大学時代の早稲田大学雄弁会活動の一環である街頭演説の様子です。場所は渋谷の109付近、休日で歩行者天国となっていました。普段は早稲田大学大隈講堂前で演説の練習を行いました。勉強をしているだけでは何も変わらない。具体的な行動を起こすことこそ大切だと私は考えました。

    大学2年生の時に、インドを旅すると人生観が180度変わると聞いて、初めて国境を越えて一人旅したインド。飛行機の中で国境を越えたことが何か不思議な感じであったし、異国で夜に一人過ごす時、パスポートに記載された外務大臣の文言が心の支えとなりました。

    写真はムンバイのスラム街の様子。日本と世界、富と貧困を肌で感じる。スラム街の入り口にいた靴磨きのおじさんに私は尋ねました。「スラム街の中は危なくないか?」 「何人かは悪い人もいる。でもそれはパリでもニューヨークでも東京でも同じではないか?」私は頭をハンマーで殴られたような感覚に陥りました。

    1994

    東京は永田町の議員会館、河村たかし事務所にて後輩とちょっと悪ふざけ。。。
    私が河村さんから学んだことの一つは、議員であるならば、常に有権者の立ち場にいなければならない、選挙は強くなければならない、と言うことでした。

    旅行中に救世軍(キリスト教プロテスタントの一派)の宿に泊まったことがありました。帰国して社会鍋という個性的な取り組みをしていることも知りました。そんなこんなで、偶然に近くにあった救世軍の児童養護施設でのボランティア活動をした時の写真です。世の中の矛盾は常に一番弱い立場にいる人々にしわ寄せとして表れます。今のウクライナも同じです。辛い現実から目をそらさずに向き合って解決策を模索しなければなりません。年末にお手伝いに伺った時、寮長先生が『何人かの子どもは親の迎えがなく、年末年始も施設で過ごすのです。だから元旦に私は初日の出を見に連れて行くのですよ。』涙が溢れてきました。
    最初は社会人としての義務感からボランティア活動を始めましたが、いつの間にか自分の生きる糧となっていたことに気付いたのです。それは遊び相手でも自分が必要とされていると実感できたからです。
    その後、私は結婚をしましたが、子宝には恵まれませんでした。だから私の子ども支援の原点はここにあります。

    2006

    金山総合駅近辺にて、ホームヘルパー2級の高齢者体験学習の様子。目が見えなく、体が不自由であると日常生活がどれだけ大変かを体験しました。
    この後、特別養護老人ホームで現場研修がありました。そこではおむつの処理方法を学びました。そして私もおむつの中の大便に手を突っ込みながらおむつを替えました。自力で生活をできない人の介護の辛さを、介護される側、介護する側の両面で思い知らされました。一体どうすれば尊厳ある最期を迎えることが出来るのでしょうか。

    2007

    初当選時の当選証書授与式の様子です。 自分は市議会議員になって何をやるべきなのか、そして、一体どれだけたくさんの応援団に支えられて今の自分があるのか、これだけは決して忘れまい、と心に誓った時でもありました。
    そして河村たかし衆議院議員(現名古屋市長)が常々話されていた『政治家や役所から嫌われても、市民から好かれる政治家にならなければならない。』と言う言葉を私は心に刻みました。

    2014

    写真はJR半田駅前にある春扇楼末広における半田市議会建設産業委員会おでかけ委員会の様子です。私は建設産業委員会の副委員長として、企画から提言作成まで全てをプランニングしました。
    この時は長浜市や倉敷市で景観を大切にしたまちづくりの調査もしたし、地元の商店街のみなさんとJR半田駅前のまちづくりについて、忌憚ない意見交換を何度も行いました。
    まちづくりはそこに住んでいる市民が主役となり、自らが行わなければうまく進みません。人任せでは駄目なんですね。議員や市役所職員がやれることは、地域住民がやりやすいように環境を整備し、伴走することだけです。